起/

 放課後の教室に居たのは朝倉だった。意外だ。

「涼宮さんの最近の一番の関心ごとが何かって、知ってる?」
 宇宙人とか未来人とか超能力者だろ。たぶん。
「残念。はずれ。正解はね、貴方」
 鈍感さんね、とおでこをつっつかれた。……正直恥しい。
 いや、お前さんは何を言って何をしているんだ。意味が分からんぞ。
 ハルヒが俺に関心を抱いているだって? 甚だおかしい。
 アイツは俺のことなんて道端に落ちてる石ころくらいにしか見てないだろう。
「……貴方がそんな性格だから、私達は困っているの。
 せっかく観察対象が変化を見せようとしてくれているというのにね」
 朝倉の言葉はさっきから意味不明すぎる。分る奴がいたらここに来い。そして説明しろ。
「……だからね、私が貴方の彼女になって涼宮ハルヒの出方を見る」
 良い考えでしょ? と、黄色いチューリップみたいな笑みを浮かべた朝倉に、俺は「はぁ?」と呻くことした出来なかった。
 俺が惚けているうちに朝倉はちょこんと背伸びをして、俺の下唇に――
「っ!?」
 ――かぷりと噛み付いた。
 俺は今きっとアホ面を浮かべているに違いない。
 意味が分からないとかなんだの言っておきながら、突然のロマンス的行為に心臓が阿波踊りを踊っている。
「注入完了、っと」
 ちゅぴっ、と小さい水音と共に朝倉は離れていき、首を僅かに傾けて見事な笑みを浮かべてた。それを見た途端、
「あれ――」
 まるで体の中に焼き鏝を押し込まれたような熱さが俺の身体を……

承/

 次の日。何時ものように坂を上っていると、後ろから声をかけられた。
「おはよっ」
「あぁ、おはよう」
 走ってきたんだろう、朝倉は息をはずませている。
 フリスビーを追いかけている犬みたいな爽やかな笑顔だった。
「後ろ姿が見えたから、思わず走っちゃった」
 息を整えながら、俺の横に自然に並ぶ。ゆるやかな歩調に、俺も足を緩めた。
「そりゃまたご苦労さんなことで」
 何もこの坂道を走るなんて。陸上部にでも入ったらどうだ。
「もう。ちょっとは喜んで欲しいな」
 と、そういう事を拗ねたようなで言われると「あぁ」とか「うぅ」とか呻くことしか出来なくなる俺だ。
 情けないとか言うな。まともに女と付き合うなんて初めてなんだ。対応と書かれた引き出しには何も入ってない。
「え、えーとだな」
 ここはありがとうと言うべきなのか。分らん。てんで分らん。
 そりゃ俺の姿を見つけて走ってきてくれたのだから、嬉しいしありがたいのだが、素直にそう言えばいいのかどうかは分からない。
 俺が思案顔で困り果てていると、朝倉はぷっと吹き出した。
「かわいいっ」
 真夏の向日葵みたいな笑顔だった。見惚れたぞちくしょう。
 かわいい、を男に対して言う場合、それは褒め言葉になるのかどうかは知らんが。
 とりあえず朝倉は少し目がおかしいのは間違いなさそうだった。俺がかわいい? なんだそりゃ。

 何でも付き合ってるとかそういう色恋沙汰は皆には内緒にするものらしい。
 朝倉とは下駄箱で別れた。放課後はまた教室でね、という約束を残して。

「なんなのアンタ、朝っぱらからにやけた顔して」
 教室に入って席につく。いきなりむすっとした顔のハルヒに睨まれた。
 そういうお前は朝から不機嫌そうだな。って、違う。俺の顔にやけてたのか?
「ゆるゆるだったわよ。みくるちゃんにでも会ったの」
「いや、会ってないけど」
「ふん。どうだか」
 ぶっきらぼうに答えて、ハルヒはそっぽを向いた。
 ……何なんだ。訳が分らないのは何時ものことだから驚かないが、俺の顔がにやけていたって別に良いじゃないか。
 どうしてお前が不機嫌になる必要がある。いや、何か別の事で不機嫌なのかもしれないけれど。
「やれやれ」
 肩を竦めて、鞄をかけて教科書やらを机にしまう。
 そこでちょうど教室に入ってきた朝倉と目が合った。 
「……」
 友達な女子たちと挨拶を交わしながら、流れるように俺に向かってウィンク。
 全盛期のマジック・ジョンソンも吃驚な不意打ちだった。どきりとする。体が熱いなぁ、まったく。
 こういう場合は手でも振れば良いんだろうか。ううむ。ウィンクなんて出来ないしな。
 ひらひらり。風に揺れるツクシ程度に手を振ってみた。ちゃんと伝わっただろうか。
「何してんの」
「い、いや、何でも」
 吃驚した。こっそりだったのに、目ざとすぎるぞ、ハルヒ。
「……部活、ちゃんと来なさいよ」
 とは言われても約束があった。断ったら、猛烈に詰め寄られた。説明ならぬ言い訳が大変だった。
 女と付き合うのって、難しいんだなぁ。

転/

「待った?」
 放課後になってから暫く。適当に時間を潰した後、とりあえず教室から誰も居なくなった時間を見計らって舞い戻ってきた。
 五分十分と席についてぼんやりとしていると、朝倉が笑いながらやって来た。
「待ってないけど、何か用事があるのか?」
「用事がないと二人きりになっちゃいけない?」
 清潔そうなまっすぐの髪を揺らして、朝倉は俺の机にちょこんと座った。
 目の前に現れるブリーツスカートから伸びた白い足とソックス。やけに目について、視線を何処に向けて良いやら困る。
「そういう訳じゃないのかどうか分らないが……」
 そういうものなのか? と、とりあえず顔に視線をやってみる。
 半身を夕焼けに染めた朝倉は、満月の夜にしか咲かない月下美人のような笑みを浮かべた。
「そういうものなのよ」
 そして、何故かやたら大きな動作で足を組み替えた。だから視線のやり場に困るって言うのに。
 なめらかに動く白い足に、少しばかりどきどきとする。いや、かなりどきっと来た。
 がたがたと椅子の向きごと体の向きを変えてみる。これで視界には入らないぞ。よし。
「……これじゃ涼宮さんも苦労するはずだわ」
 朝倉は不思議なことを呟いて、ふぅと息を吐いた。顔は見えないが、何となく呆れ顔をしている気がした。
「どうしてハルヒの名前が出るんだ」
「まぁ、だからこそ私がこうして頑張ってるわけなんだけどね」
「何を頑張ってるんだ」
「注入量が足りなかったのかなぁ」
 はふ、という溜息。何だろう。会話がかみ合わない。
 ……こういうときはどうすれば良いんだ。分らなねぇよ。古泉あたりなら分りそうだ。教えを請うなんて勘弁被るが。

「こうなったらもう強引にいくしかないわ」
 なんて思案している俺の目の前を、やたら白いものがふわりと横切った。
 足だ。うん。足だった。朝倉の足。そして足と同じく白いソックスと、白いした――ぎ?
「へ?」
 惚けてしまった。完全に。
 朝倉は机の上で体の向きを変えて、俺と正対になっていた。その瞬間に、色んな白いものが見えたのだった。
 思わず顔を見上げる。朝倉は猫を膝に抱いて背中をなでているような笑顔をしていた。うふふ、と微笑んで、
「えいっ」
 そのまますとん、と俺の膝の上に圧し掛かってきた。勢いに押されて後ろに倒れそうになる。
 慌てて手で抱きとめて、踏ん張った。朝倉の手が、俺の首に回される。
「冗談だったらやめろ」
 とりあえず混乱だ。常套句っぽいことを言ってみる。
 この格好は専門用語で言う対面座位だ。エロ本の知識がこういうところで役に立つね。立つじゃねぇよ。
「冗談だと思う?」
 晴れやかに問いかけて、朝倉は俺の肩に自分の顔を乗せた。
 はっきり言ってそんな笑顔で言われると冗談としか思えない。
 付き合い始めて二日で行き成り襲い掛かってくる――しかも教室で――なんて女子高生が居たら、
「あぁ、うぅ……?」
 それはとても素敵だと思う。と思うが、今の俺にとっちゃ予想外すぎるわけで。
「ふーん」
 朝倉は俺の耳にふっと息を吹きかけた。
「あふぅ」
「やっぱり、かわいい」
 ぞわぞわっと来た。未知の感覚に、脳内会議の面々は大混乱の様を呈している。
 これはつまりあれなんですか。あれって何ですか。何ってあれですよ。だからあれって何なんだよ。
 ていうか本気なんだろうか。ほんの昨日までそんなに喋ったわけでもない美人で真面目な委員長と付き合うことになって、その清楚の権化だったみたいな奴が今俺の前で痴女みたいな振る舞いをしている。本気というか、俺の夢なんじゃかいなとさえ思えてくる。

「夢じゃないよ」
「エスパーかお前は」
「超能力者って言うよりは、宇宙人に近いかな」
 あぁ、なるほど。長門のお友達か。それなら納得できるかもしれない。
 何を考えてるか分からない奴に限って、そのうちとんでもない事を考えってるのはよくある話だ。
 どうしてか朝倉は大混乱な俺の様子が面白いらしく、またくすくすと笑い、俺の耳に息を吹きかけた。
「……やめてくれと言ったら?」
「余計にやめてあげない」
 いや、勘弁して欲しい。会議の面々は二度目の攻撃で混乱を通り越したのか変な踊りを踊り出した。
 きたこれきたこれ。きたこれきたこれ。きたこれきたこれ。何が来たんだ今北産業。 
 正直このままではたまりません。
「何か当たってるんですけど?」
 ボケを噛んでしまった若手芸人を弄り倒す先輩芸人のような口調でそう言うと、朝倉はぐいぐいっと腰を押し付けてきた。
 これは……ま、待て慌てるな、これは孔明の罠だ。
 大方掃除用具入れのなかに誰か居るんだろう。早く出て来い。そして早く何処かに行け。
「ねぇ、当たってるってば」
 知らん。知らない。当てた覚えはないし立てる意思もなかった。不可抗力だ。
 当ててるのはそっちだ。腰もそうだが胸が、胸が。吐息がっ。
「腰と胸と吐息がどうしたの?」
 止めてくれ、と言うのに。くそう、何がそんなに面白いんだ。色んなものを耐えようとして掌に力を込めたら、きゃん、とか可愛い悲鳴でこそばがられた。すまん、うふふ、とか何とか、そんな事をしている場合ではないのである。後々俺はとことん悔やむことになる。
 さっさとやる事やって……じゃなくて、順序や純真さの大切さを説いて朝倉を引き下がらせるべきだったのかと。

「あーもうサイテー」
 ガサツに戸を開けて入ってきたそいつは、
「忘れ物するだなんて、小学生じゃあるまいし」
 不機嫌極まり無い様子でやってきたそいつは、よりにもよって我が部の団長涼宮ハルヒだった。 

「あ」
 と俺が思って硬直するのと、
「へ」
 と俺たちを見つけたハルヒが目を見開いたのと、
「えい」
 と朝倉が俺の耳を甘噛みしたのは殆ど同時だった。

「ふぁ」
 間抜けな俺の呻きが教室に響く。間抜け過ぎて首を吊りたかった。未知だけれども気持良いに確定される感覚に、何かがむくっと顔を上げた。そいつの動きを抑えることは不可能だった。
「きゃっ」
 とか何とかさっきよりも可愛らしい悲鳴が耳の中でくぐもった。流れ込んでくる熱い吐息に、背筋がぞわぞわ震える。なんていう混沌とした状況。ギリシア人も顎を外して吃驚しているだろう。
 などとコスモスを求めている場合ではない。
 こんな場面どう見ても逢瀬にしか見えない。情事である。それはもう完全完璧な乳繰り合いにしか見えなかった。
「何やってるの、アンタ等」
 聞いたこともない恐い声だった。俺の体温がマグマの溶岩流のそれだったとしたら、ハルヒの声は摂氏マイナス273度。地獄の鬼も思わずダウンジャケットを買いに走る勢いだった。
 その声で凍りつけたらよかったと心底思う。
「何やってるのって、聞いてんのよ!」
 痴漢で捕まった中年の冴えない夫を怒鳴りつける主婦のような顔をしたハルヒは、叫びながらずんずんと俺たちに近づいてくる。
 どうしてアイツがこれほど不機嫌かつ憤怒しているのかさっぱり理解出来ないが、見られては困る場面を、一番見られてはいけない奴に目撃されてしまったのだろう事は間違いなさそうだった。
 死んだかな。なんて天使の幻影を見ている俺にお構いなしに耳のおうとつを蹂躙していく朝倉の舌はざらざらぬるぬる生暖かくて正直気持良いので、別に死んでも良いか――
 なんて思わない。止めろ止めろって。流石にこの状況なら離れたり慌てたりするだろう普通っ。
「はにゃれろっへ」
「ん。なぁに?」
 頭がこんがらがるやらぼうっとしてるやらで上手く喋れなかったのが悪いとは思わない。
 なぁに、なんて可愛く言っても駄目だって。噛まないで。舐めないで。息を吹かないでくれ。

 そんな事をしていた所為だ。ハルヒの根拠不明な憤怒は頂点に達していた。
「無視してんじゃないわよっ!!」
 ついに傍までやって来たハルヒは、俺の隣の席の机に思い切り本気のケンカキックを食らわせていた。
 哀れ他の机を巻き込んで吹き飛ばされたそれは、ただの割れた木の板と材質不明な鉱物で構成された産業廃棄物に為ってしまった。
 ていうか何て威力だ。……あぁ、マジで死んだかも。
「きゃっ、あん……もう、何よ」
 喋るのは諦めた。つんつつつんつんとわき腹を突っついて警鐘を鳴らして警告を発してみる。
 脅威のジェノサイダーがすぐ隣に居るのんだ。おい、何よじゃないよ。止めろ離れろって。悶えてる場合じゃないんだよ。
 つんつんつつん……!
 モールス信号の要領だ。スマン嘘だ。焦っているんで適当に突っついているだけ。
 だけだったのだが、どうやら上手いこと発信は受信されたようで、朝倉はうふふと笑いながらも顎から顔を退けてくれた。そして、首だけを横に向けると、
「あら、涼宮さん。何か用?」
 ハルヒに向けてピンクの薔薇のような笑みを浮かべたって、待て。
 全然完全無欠に受信失敗じゃねぇか。掴んだ命綱は蜘蛛の糸だった。俺は飛んで行きそうになる精神を根性で捕まえて、現実に帰ってくる。
「何か用、ですって? ふざけてんの、アンタ」
「ふざけてなんか無いわ。真剣だから、こういう事やってるの」
「何が真剣だって言うのよっ! キョンから離れなさいよ!」
「真剣なのは気持よ。ねぇ涼宮さん、分らないわ。どうして離れないといけないの?」
 ふいに、朝倉は見たこともないような真面目な顔と声をした。
 凛々しい眉を顰めて、若干下目の位置からぎらつくハルヒの眼を真っ向に迎え撃つ。置いてけぼりな俺だが、内心戦々恐々である。どうなるんだ俺たち。主に俺。
「どうしてって……」
 気圧されるようなタマじゃない。ハルヒはそれでも言葉を詰まらせた。
 苦虫を潰したのと怒りが交じり混じった表情からは、心中を察することは出来ない。
 そんなハルヒを見て、朝倉が口元だけで笑った……ように見えた。
「ねぇ、もしかして貴方……キョン君の事が好きなのかしら?」 
 思わず倒れこんでしまいそうになるその問いに、ハルヒは即答だった。
「そ、そんな訳ないでしょ! こんな面白くも何ともない奴、私が好きになるなんて、ありえないわ!」
 鼻息を荒くして、気持ち良いくらいにばっさりと言い切る。
「……そう、そうなんだ」 
 その瞬間朝倉が残念そうな顔をした気がした。
 本当に一瞬だったのて見間違えか幻覚だったかもしれない。気のせい、だろう。自分が付き合っている男に他の女が恋愛感情を持っているのを望む奴なんて、居ないと思う。多分。
 ただ……何だろう。俺はハルヒの言葉を聞いて、変な気分になっていた。
 せっかくやっとの思いで買って貰った玩具が、直ぐに壊れてしまったときのような悲しい気持。喪失感。それらのものに似た、不思議な感情。
 ――なぜだ? ハルヒに俺が好かれていないなんてわざわざこんな状況で確認するような事じゃない。
 そうだぜ。当たり前じゃないか。アイツが求めているのは人間の範疇を凌駕したけったいな連中。例えばウサギ獣人とかなのだから。
「だったら良いじゃない。私達ね、こういう関係なの。お邪魔だわ、貴方」
 もう残念そうな表情を消えていた。朝倉は挑発するようにそう言うと、しなをつくって俺にもたれかかって来た。
 ふにゃん。やわっこい――と、それで俺の変な気分も何処かに行ってしまう。沸騰するように体が熱くなる。
 挑発を上等だと言わんばかりに、ハルヒは声を荒げた。
「邪魔って何よ。キョンはうちの団の団員なのよ! 団長の許可なく勝手に色恋されたら迷惑なのよ!」
 あぁ、うん。そうだよなぁ。甚だ不本意だが団員一号兼雑用その他諸々の業務を一手に任されているというか押し付けられているのが俺だ。
 でもなハルヒ。団内恋愛は確か禁止だとかと聞いたけど、その他は別に良いじゃないか。確かに色々と難しいし過激過ぎるし過激過ぎるてらいもあるけど、俺だって彼女が欲しいかと聞かれればイエスと即答して、更に今現在団員じゃない彼女がこうして居るんだぞ。少しは自由にさせてくれ。
「それにこういう関係って何よ。キョンが女にモテるなんて有り得ないんだから。私の団員を持て遊ぶんじゃないわよ!」
「酷いわ涼宮さん。私達はね、好きあってるの。ねぇ、いちいち貴方の許可を得ないといちゃつくのも駄目なわけ? いい加減にして」
「いい加減にするのはアンタでしょ。良いからさっさとキョンから離れなさいよ!」
「アンタアンタって、私には朝倉涼子ってきちんとした名前があるんだから!」
「っるさい! 黙れ! つべこべ言ってないで私の団員さっさと返しなさいよ!」
 俺がリバティの子供になるのを夢に見ている間に、二人の口撃の応酬は逃げる手段が窓から飛び降りるの一つしかなくても実行に移したくなるほどヒートアップしている。
 この場合朝倉に手を貸すのが本来の役目なんだろうが、俺がハルヒに口で勝てるわけがない。
「物みたいに言わないでよ! 貴方の団員じゃなくて、私の彼氏なの!」
 少しばかりうれしいことを叫んで、朝倉は俺にきつく抱きついた。足まで極めてがっちりホールドモードだ。これが抱き枕の気持なんだな――あ、いや、流石に恥しいんだが。ていうか体が動かないのはどーいう事だ。この細身の朝倉のどこにこんな力が。
「……そう」
 ハルヒの今まで一番低い声だった。
「分ったわ」
 ぎゅっと絡み付いてきている朝倉の頭の髪の毛の良い匂い越しに、視線だけを巡らせる。ハルヒの顔は夕陽に照らされてよく分らなかった。ただ、極左寄りの新聞記事を眺める外務大臣のような目つきをしているという事だけが分かる。
「……」
 瞬間、目が合った。俺の眼にどんな感情が浮かんでいたかは知るべくもないのだが、刹那にハルヒの眼に浮かんでいたのはなんとも形容しがたい感情だった。
 怒りのようでもあり、途惑いようでもあり、悲しみのようでもある。俺の観察力を総動員してもう少しで尻尾をつかめそう、というところで視線は逸らされた。
「私、帰る。邪魔したわね」
 それだけ言って、あっという間に踵を返して教室から出て行くハルヒ。
 派手に音を立てて戸が叩き閉められ、バァンなんて悲鳴が響いた。 
 呆気にとられつつも全てを目で追った。あれだけヒートアップしていたのが嘘のようなクールダウンだった。不気味である。いったい何を考えているんだ、ハルヒ。途中で引き下がるなんてお前らしくも無い。それとも何か作戦があっての戦略的撤退なのか。
「……」
 などと俺がいくら考えたところでもアイツの頭の中なんぞ分るはずもない。
 それはそうとアイツ結局忘れ物はどうしたんだろう――とかかなり的外れな事を考えてしまうのは緊張感が緩まって、体がえらいことになりだしたからだ。
 今更ながら衣服越しに感じる柔らかいのに弾力充分な何かとか、少ししめっぽくて温かい何とかの所為で危機的状況である。あぁ、悲しきかな男の性よ。
 という具合に悶々としている俺の耳元に、やりすぎちゃったかな? という朝倉の呟きが聞こえた。エグザクトリィ、と即答しそうになるのを我慢して、
「何をやりすぎたって?」
「色々。でも、明日が楽しみかな」
 抱きつく力が弱まる。体がはなれて、悪戯っぽい笑みを浮かべる顔と見詰め合った。
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、って言うじゃない。大きな利益を得るためには相応の投資が要るの。億万長者かはたまた自己破産となるか。ちょっと恐いけど」
「何が言いたいのかよく分らんが、とりあえずお前に対する印象は改まった」
「あら。どんな風に?」
「ハルヒに負けず劣らず破天荒だっていう風にな」
 襲ってきたり、ハルヒと真っ向に口喧嘩したり。
 痺れ粉でも撒き散らしそうな花みたいに笑って、朝倉は「だってね」と前置きしてから、
「コレくらいじゃないとやっていけないわ。この星の人たちは恐るるに足らずだけど、キュートな同僚は私なんかよりずっと高性能だから」
「たまに意味不明だな、お前は」
 やれやれ、とすくめたい肩には朝倉の手がある。
「ごめんね。いつか分ると思うから、それまで我慢して」
 何となくその分る時が来なければ良いと思ってしまったのは何故だろうね。
「女はね、秘密の多い生き物なのよ」
 なんて、至近距離で微笑みながらウィンクされては黙るしかない。
 だがしかし、俺の方は明日が楽しみじゃないのは確かだった。はぁ。校内中に知れ渡ったりしないだろうな。谷口あたりに後ろから刺されそうだ。次の新月は何時だったっけ。
「ふふ、大丈夫。その時は守ってあげるから」
 女が言う台詞じゃない気がするんだが、朝倉なら谷口程度なら軽くあしらいそうである。
 それなら俺の懸案するべき事項はハルヒについてだな。どんな顔で部室に行けば良いんだろうか。退部処分もありそうで、どうしてかちょっと恐怖でもある。本当にどうしてだ。
 なんて俺がちょっぴり憂鬱な気分に浸っていると、何か腰にぐいぐい来る感触があった。対面座位は絶賛続行中である。いやいや、待て待て待て。
「私もね、貴方に対する印象を改めたわ」
 およそ年齢に不相応な妖艶な笑みを浮かべる朝倉。
 聞きたくないが、聞いてしまう。
「そりゃまたどんな風に?」
「あんな事があったのに、こんな風にしてるんだもん。……鈍感さんだと思ってたけど、本当は変態さんだったのね」
 反論できなくて悲しかった。
 極限の羞恥に俯いた俺の耳に、甘い吐息が届いてきた。
「しっかり観察させてね? ――それじゃ、いただきます」
 あーっ!?

結/

 着衣やら何やらを直して下校する頃にはもう陽もかなり翳り、空を見上げればうっすらと月が見えねぇ――って今日が新月かよ。
 跳ねるという意味のマンガ雑誌を背中にしこんでおけば良かったな、なんてことを考えつつ坂道を下る。後ろを振り返れば電柱の影に……誰も居ないよな。よし。
 ちなみに結論から言えばいたしてない。いたしてないぞ、そういう事は。断じて。
「ごめんね。良いデータが観測できそうなの。先いくね」 
 という謎の言葉を残して、朝倉は本当に生殺しなところで帰ってしまった。
 助かったのか助かってないのか惜しかったのかは分らない。それを捨てるなんてとんでもない、という事なんだろうか。
「ねぇ、どんな気持ち?」
「くすぐったいの?」
「ここを触るとどんな感じ?」
「へぇ。こういう風になるんだ」
 俺の反応や感情をいちいちこと細やかに確認したり訊ねてくるあれは一体どんなプレイだったんだろうね。それもあんな興味津々な顔つきで。今まで身につけた知識も役に立たなかった。立たないじゃねぇよ。
 家に着いたらベッドの下を漁らないと悶々として寝れそうにないな、なんてちょっと情けない事を考えていた所為である。街灯の途切れの暗闇からぬっと現れたそいつに反応できなかったのは。
「話がある」
「――っ!?」
 足音も気配もなく忍び寄ってきたそいつは、お決まりの無表情だった。
「長門。驚かすな。心臓に悪い」
「そういう意思は無かった。けど結果的にそうなったことには謝罪する」
 そう言って二ミリほど顎を引く。頭を下げたつもりなんだろうか、これで。
 ……まぁ、いいか。で、話って?
「朝倉涼子について」
 心臓が少しはねる。まさか見てたのか。ていうか知ってるのか。内心冷や汗をかいている俺をお構いなしに、長門は言葉を続けていく。無感動な声で。
「朝倉涼子は貴方にSUデーモン型トロイウィルスを感染させ、感情素子をリネームしている。今の貴方が朝倉涼子に対して好意的感情を持っているのはその為。周囲の情報変換を行っていない事、意図的に涼宮ハルヒと遭遇する場所と時間帯に貴方を呼び出した事などから、これは恣意的に積極的干渉を行うことで情報フレアの発生を促すためだと思われる。そして現在非常に短い間隔、大きな規模で情報フレアが観測されている。統合思念体は得られた観測データに大いに満足し、朝倉涼子に干渉の継続を命令した」
 えぇと、何だ。前にも言ったとおり俺にはお前の言ってることがさっぱり分からん。
 あとそういう類の話は勘弁だと言っただろうに。ナントカ思念体? なんだそりゃ。今の言いぐさじゃ、朝倉も宇宙人……えぇと、ナントカインターフェイスみたいじゃねぇか。
「その通り。パーソナルネーム朝倉涼子はコミュニケーション能力特化タイプの対有機生命体ヒューマノイド・インターフェイス。もともとは私のバックアップだったが、今回の事で私達の役割と指令は変更された。これからは私が彼女のバックアップにまわることになる」
 ……いや、もうなんと言っていいか分らないのだが、
「要約して要点だけ述べてくれ」
 それなら理解できるかもしれないから。
 とりあえず宇宙人どうこうは保留させてくれ。信じろといわれても信じられないし。
「言語化したいが私のコンラング内には一致する言葉が見当たらない。情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない。許してほしい」
「許す許す」
 許すから難しい言葉を使うな。頭が割れる。
「指令変更後の私の役目は……」
「役目は?」
 長門はたっぷりと十秒ほど考え込んでから、二センチほど首を傾けた。
「恋のキューピッド」 
「は?」
「頑張って」
 統合なんとかも期待しているとかナントカ言って、長門は颯爽と身を翻した。
 ……ありがとう、と言うべきなのか? ここは。やれやれ、と肩を竦める。長門の言っていることは意味不明だったが、何か大変なことになってるのは間違いなさそうだった。
 ……女と付き合うのって、本当に大変なんだな。




続くのか?

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